Masuk鼓膜を容赦なく突き破る、爆発のような破砕音。
壁一面を覆っていた分厚い強化ガラスが、内側から凄まじい圧力を受けたかのように、一斉に外側へ向かって弾け飛んだ。 キラキラと、頭上のシャンデリアの光を乱反射しながら、無数の鋭利な破片がリビングの空気を切り裂く。 バラバラバラッ、と、硬質な氷の雨が降るような凄惨な音が、密室だった空間に幾重にも反響する。 それまで部屋をねっとりと満たしていた、継母と麻里亜のむせ返るような百合の香水。そして父の吐き出すウイスキーの饐えた匂い。 私を十九年間も窒息させ続けてきたその不浄な空気が、一瞬にして、夜の闇へと吹き飛ばされた。 代わりに流れ込んできたのは、肌を刺すような夜の雨の匂いと――肺の奥の水分まで一瞬で凍りつかせるような、圧倒的な質量の「冷たさ」だった。 吹き抜けになった窓枠の向こう。 漆黒の夜闇と、横殴りの激しい雨を背にして、一つの影が立っていた。 黎様だ。 雨水をたっぷりと吸い込み、重くなったダークスーツが、彼の大きな身体に黎の手が、私の背中に回され、そっと全体を包み込むようにして引き寄せられた。 高い鼻先が首筋に押し当てられ、長い銀髪が私の肩口にハラリとこぼれ落ちる。シルクのシャツ越しに伝わってくる彼の心音は、信じられないほどゆっくりで、そして力強いリズムを刻んでいた。 スゥーッ、ハァーッ――。 私の匂いを最後の一滴まで肺の奥底に飲み込もうとするような、深く、長い呼吸音。吸い込まれるたびに、彼の胸が鋼のように膨張し、私の頭をさらに強く、あの温かい平熱の皮膚へと押し付けてくる。「……お前がいるから」 耳元で、地鳴りのように低い声が囁かれた。「俺は、この世界で、息がしたいと願ってしまった」 声が、息の通り道のいちばん奥に触れた。「あの日、雨の夜にお前を拾った時は、ただの命綱だと思っていた。お前がいないと息ができないから、だから手元に縛り付けておくだけの、便利な道具だと自分に言い聞かせていた」 黎の長い指先が、私の髪を掬い上げる。慈しむような、ひどく繊細な手つき。「だが、違った。お前が俺の隣で、そんな風に自分の好きな音を鳴らして、一人の人間として笑っているのを見るたびに……俺のこの止まっていたはずの果てしない時間が、初めて意味を持って動き始めるのを感じるんだ。お前という最愛がそばにいるから、だから俺は、この人間の撒き散らす不快な空気の中でも、もっと深く、お前と同じ息を吸いたいと思ってしまった」 目の裏が熱くなり、泣きそうな塊が喉へせり上がってきた。「……ずるいです、そんなことを言われたら」 私は、彼の広い背中に両腕を回し、熱にしがみつくようにして応えた。「私も、黎様と同じ時間を生きて、一緒に感じたいです。……ずっと、あなたの隣で息を吸っていたいです」 黎の喉元で、甘やかな安堵の音が鳴る。 彼は私の身体を、今度は壊れ物を包み込むような慎重さで、さらに深くその腕の中へと閉じ込めた。 窓の外の夕闇は完全に帳を下ろし、東京のネオンが、真っ白な大理石の床に淡く滲んでいた。
◇「ただいまー! ねえ、聞いてよノワール、下のエレベーターのセキュリティ、また設定変えたでしょ!」 突如として、玄関ホールから鈴を転がすようなクリアな声が響き渡った。 バタン、と重厚な金属扉が開く音。 リビングへと足早に上がり込んできたのは、月の光を紡いだような白い髪を揺らす少女だった。白亜は真っ白なシルクのドレスの裾を軽快に翻しながら、アイスブルーの瞳を輝かせて、一直線にキッチンの巨大な冷蔵庫の前へと陣取った。「ブラン。貴様、なぜ毎日我が物顔で俺のテリトリーに侵入してくる。今すぐその白い翼を根こそぎ引っこ抜いてバルコニーから放り投げるぞ」 黎が不機嫌そうにソファから立ち上がり、巨大な影となって背後から睨みつける。「嫌だもんねー。私はお姉さんにプリンの在庫確認を頼まれてる正当な管理人。ほら、約束通り、今日の分の特製カスタードプリン、ちゃんと二十個に増えてるじゃん!」 白亜は冷蔵庫の奥から瓶入りのプリンを両手に抱え込むと、悪びれる様子もなく回転椅子にドカッと座り直し、銀のスプーンを口にくわえてケラケラと笑った。「二十個だと? 瀬理亜、お前、このトカゲにどれだけ資産を貢いでいるんだ。金の無駄だ、明日からあのタワマンの冷蔵庫のロックをすべて変更する」「無駄じゃありません。白亜ちゃんがいてくれたから、あの船の底で流れを変えられたんですから」 私は口角を緩め、黎のシャツの胸元を掴んでいた右手に控えめに力を込めた。「フン。トカゲの分際で、いちいちお前のお人好しな本能に漬け込みおって」 黎は本気で忌々しそうに舌打ちをしたが、それ以上白亜を追い出そうとはしなかった。彼自身も、あの夜会での共闘を経て、この銀髪の来訪者に対して、どこか家族のような不器用な情を抱き始めているのを、その声の端々の柔らかさから読み取ることができた。「はいはい。大型犬の遠吠えは無視して、お姉さん、このメロン味のやつも半分あげるからね!」 白亜は機嫌よくスプーンを動かし、新しいプリンの瓶の蓋をパカッと開けた。 広い、広すぎるペントハウス。 最初は逃げ出せない空っぽの鳥籠だと思っていた、この冷たい黄金の空
「……おい、瀬理亜」 不意に、黎の口から紡がれたのは、ひどく低く、熱を帯びた響きだった。 初めて私の名前を呼んだあの夜から、数ヶ月。今ではもう、息をするのと同じくらい自然に、その音節が彼の唇から滑らかに零れ落ちる。「なんですか、黎様」「手を出せ。皮膚がまた冷えているのではないか」 黎は半分空になったカップをテーブルに置くと、大きな掌を伸ばし、私の右手首をガシッと掴んだ。 熱い。でも、出会った頃のあの骨を砕かんばかりの暴力的な力加減はどこにもなかった。ただ、目の前にある最愛が、自分の知らないところで壊れてしまうのを恐れる、ひどく臆病なほどの慎重さが、その掌の厚みから伝わってくる。「冷えていません。さっきまでピアノを弾いていましたから、むしろ温かいです」 繋いだ手を彼自身のシャツの胸元、心臓の真上あたりへと引き寄せ、ピタリと押し当てられた。 ヒヤリとした金属のような異物感は、もうどこにも残っていない。禍々しい黒い鱗の群れも、すべて皮膚の下へと溶けるようにして消え去り、そこにあるのは、皮膚の奥まで届く確かな熱と、岩盤を打つような力強い鼓動の地鳴りだけだった。「……吸い取らんな」 黎が、黄金の瞳を限界まで細め、繋いだ手元を食い入るように見つめた。「ええ。言ったでしょう。一人で背負わなければ、命は削られないんです。白亜ちゃんの空気の流れを借りて、場の淀みを外へ逃がす方法を、私はもう知っていますから。……だから、もう二度と、黎様のために自分の命を薪みたいに燃やし尽くしたりしません」 まっすぐに、その琥珀色の瞳を見つめ返す。 黎の目の奥で、様々な感情が激しく渦巻き、やがて一つの、どうしようもないほどの熱い光へと収束していくのがわかった。「……浄化できなくなっても、いいと言ったはずだ」 黎の大きな右手が、こちらの頬を包み込んだ。 ごつごつとした指の関節から伝わってくる、確かな人間の皮膚の質感と、愛おしいものの温度。「お前が俺のこの肺の痛みを癒やしてくれな
ペントハウスのリビングは、すっかり陽が傾き始め、オレンジ色の淡い夕暮れの影に沈み込みつつあった。 キッチンカウンターの前に立ち、ボウルの中に新鮮なコーヒー豆をパラパラと投入する。ハサミでクラフト紙の袋を切った瞬間、深く焙煎された芳醇な苦味が湯気のように弾け、室内の空気を一気にビターな香りで満たしていった。 引き出しからペーパーフィルターを取り出し、陶器のドリッパーに慎重にセットする。お湯を注ぐと、シューッという微かな音とともに、ふっくらとドーム状に粉が膨らみ始めた。 背中越しに、ずしりとした質量を持った「気配」が近づいてくるのがわかった。 足音は驚くほど小さい。けれど、彼の内側から放たれる強い熱波が、空調の冷風を完全に相殺して、背中の皮膚をじわじわと伝わってくる。「……終わったか。あの騒がしい人間の子供どもが、ようやく俺の城から消え失せたな」 頭の上から降ってきたのは、心底不機嫌そうな、けれどどこか子供のように強張った低い声。 振り返ると、黎がキッチンカウンターの端に寄りかかり、太く硬い腕を胸の前で固く組んで立っていた。仕立ての完璧な漆黒のシャツの襟元は少し開けられ、そこからは、人間のそれへと完全に回帰した太い首筋が見えている。 長い銀髪はいつものように無造作に流され、その奥で光る黄金色の瞳は、こちらの手元を落ち着かなさそうに追っていた。「騒がしくなんてありません。みんな、すごく一生懸命に練習してきたんですよ」 二つの真っ白なマグカップに、熱いコーヒーを注ぎ分ける。「俺にとっては同じだ。お前が俺以外のもののために指先を動かし、あの小さな肉体に体温を分け与えていること自体が不快でたまらん。空気が薄くなる」 黎はフンと鼻を鳴らし、組んでいた腕を解いて、ローテーブルの方へと大股で歩いていった。椅子に深く腰を下ろすと、長い脚を無造作に投げ出す。黒いスラックスの生地が張り詰め、規格外の筋肉の起伏が夕暮れの光の中に晒された。 トレイを両手で持ち、ダイニングテーブルへと歩み寄る。彼の目の前に、砂糖を山盛りに三杯投入し、ミルクを並々と注ぎ込んで白茶色になったマグカップをそっと置いた。
初夏の柔らかな風が、半分だけ開け放たれたパノラマウィンドウの隙間から、カーテンの薄いシルクをふわりと押し上げて忍び込んできた。 窓の外には、抜けるような青空の下、東京のビル群が陽光を反射してキラキラと眩しく輝いている。かつては冷たい硝子の壁で完全に遮断されていたあの天に最も近い部屋に、今は街路樹の青葉のみずみずしい匂いや、遠くを走る車の微かな排気音といった、生々しい人間の世界の営みが心地よい熱を持って流れ込んでいた。 大理石の床には、鏡面のような白さを和らげるように、生成りの柔らかなラグが何枚も敷き詰められている。その上には、丸みを帯びた木製の小さな椅子がいくつか並び、先ほどまで部屋を満たしていた賑やかな気配の余韻を留めていた。 タン、タロ、タン――。 リビングの中央、一番日当たりの良い場所に鎮座する巨大な黒いグランドピアノから、小さな、けれど弾むようなアルペジオの旋律が零れ落ちる。 真っ白な象牙の鍵盤の上を滑るように動く十本の指先。右手の中指の腹をそっとなぞってみても、あの不快な痺れや薄紫色の管の脈動は、もうどこにも見当たらなかった。「瀬理亜先生、ここの指の動かし方、これで合ってる」 椅子のすぐ横から、つぶらな瞳をした小さな男の子が、鍵盤を指差しながら見上げてきた。有栖川の家を出て、あの豪華客船での夜会から数ヶ月。六本木のペントハウスの片隅で、近所の子供たちを集めて始めた、ごく小さなピアノ教室の日常のひとコマ。「ええ、完璧。指の力をほんの少し抜いて、鍵盤の底を優しく撫でるようにしてみてね」 男の子の小さな手に、自分の掌をそっと重ねた。 触れた皮膚から伝わってくるのは、子供特有の生温かい、少し汗ばんだ体温。かつて誰かの顔色ばかりを窺い、役割を果たさなければ捨てられると怯えていた頃の冷たさは、もうどこにも残っていない。自分の好きな音を、自分の意思で誰かに伝えることができる。その確かな手応えが、心のいちばん柔らかい場所を、じんわりと温かい熱で満たしてくれていた。「わあ、本当に綺麗な音が鳴った! じゃあね、先生、また来週!」 男の子は嬉しそうに椅子から飛び降りると、小さなリュックを揺らしながら、玄関の方へと大股で走っていっ
それと同時に、四方の壁から身体を引き剥がそうとしていた吸引の波が、糸を切られたように途絶えた。 部屋を重く満たしていた濃縮瘴気の匂いも、白亜の冷気と私の光の循環によって、船底の吸気口へと一気に吸い出され、跡形もなく消え去っていった。 あとに残されたのは、雨上がりの森のような、ひどく澄み切った、深い静寂。「……はぁっ、」 黎の喉から、大きな、深い呼気が漏れ出た。 彼を縛り付けていた冷たい圧が、仕掛けの崩壊とともに消え去ったのだ。 黎の広い胸元が、深く、本当に深く、船底に戻った澄み切った空気を肺の奥底まで吸い込んでいく。厚い胸元が鋼のように膨らむたび、首筋から頬を覆っていた漆黒の鱗は、皮膚の下へとほどけるように消えていった。 黎の呼吸から、あの痛々しい喘鳴が、完全に消え失せていた。 深く落ち着いた鼓動が、船底の静けさにゆっくり戻ってくる。 黎は床についた掌に力を込め、ゆっくりと、その百九十センチを超える巨体を立ち上げた。「……瀬理亜」 地鳴りのように低い声。けれど、そこにはもう、今朝のあの閉ざされた扉の冷たさは微塵も残っていない。ただ、自分の大切な最愛を、二度と手放さないという、狂おしいほどの熱がその響きの中に満ち満ちていた。 私は、ウールコートのポケットの中で、本物の祖母のロケットの表面を指の腹でそっとなぞった。 手首の薄紫色の管は、もう跳ねていない。指先の感覚も戻っている。身体の内側に、自分の体温がしっかり残っているのがわかった。 命を、削っていない。 一人で背負わなかったから、私は自分の命を削らずに、黎様の呼吸を守ることができた。必要とされるためではなく、隣で一緒に息をするために、この力を選び直せたのだ。「あーあ。ほんっと、私の上質なドレスが油まみれで台無し。お姉さん、あとで絶対、あの六本木のタワマンにある高級なプリン、十五個じゃ足りないからね。二十個は奢ってもらうからね」 白亜はひっくり返った金属ケースに腰を下ろすと、ドレスの裾についた黒い油を、つまらなそうに指先ではたいた。口を尖らせる彼女の横顔を
向かう先は、誰も寄り付かない本邸の最下層だった。 軋む木製の階段を下り、さらにその奥にある、むき出しのコンクリートの階段へと足を踏み入れる。一段下りるごとに、空気が急激に冷え込んでいくのが肌でわかった。雨の湿気とは違う、何十年も澱んだままの、カビと埃が混ざったような不快な匂いが鼻腔を塞ぐ。 地下二階に相当する深さ。そこの突き当たりに、分厚い木製の扉で仕切られた古い地下室があった。使われなくなった家具やガラクタが放り込まれるだけの、暗く冷たい物置部屋だ。 黒服の男が重い扉を引き開け、背中から突き飛ばした。 「ああっ……」 冷たいコンクリートの床に膝を打ち付け、ドレスの裾が埃ま
翌日。 昨夜の得体の知れない熱と恐怖に当てられたのか、終始ぼんやりと魂が抜けたような状態のまま、流行遅れの地味な色のドレスを着せられ、ホテルの宴会場へと連れ出されていた。 有栖川家と獅子王グループの結びつきを祝う、華やかな婚約パーティー。 控室から促されるままに入場し、親同士が取り決めた婚約者である獅子王 理恩(ししおう 理恩)の隣に立った、その直後だった。 パリンッ! シャンパングラスの乾いた破砕音が、静まり返った宴会場に響き渡った。 足元に散らばる鋭いガラス片よりも冷たいのは、こちらを見下ろす百人以上の招待客たちの、嘲笑と侮蔑を含んだ視線だ。 「君との婚約は、今
「痛っ……!?」 ミシミシと、骨が軋む鈍い音が耳の奥に響く。血流が一瞬で止められ、指先から血の気が引いていくのがわかった。 (だめ、指が……っ、痛い……!) 恐怖で奥歯がカチカチと鳴る。 男の黄金色の瞳が、ゆっくりと細められる。 視線は、助けた相手を見る目ではなかった。こちらの値踏みをするような冷たさと、ドロドロとした暗い怒りが、縦に割れた瞳孔の奥でチロチロと燃え上がっていた。 「……有栖川の、淀んだ血の匂いがするな」 地鳴りのように低く、そしてひどく掠れた声だった。 男の長い指が、手首をさらにギリギリと締め上げる。手首の骨が悲鳴を上げ、思わず顔が苦痛に歪んだ。
――冷たいはずの深夜の雨が、ひどく生温かかった。 足元のアスファルトを叩きつける水しぶきを浴びながら、両腕で胸に抱え込んだ分厚いバインダーをギュッと握り直す。 (どうして、こんなことになっちゃったんだろう……) 一時間前の出来事が、まだ頭の中でうまく処理しきれていなかった。 自室の狭いベッドの上で、いつものようにピアノの楽譜を眺めていた時のことだ。有栖川家という名門の体裁を保つためだけに、お嬢様学校へ通い、一流の講師からピアノを習わされている。屋敷に帰れば家族の肩を揉む雑用係として扱われる毎日の中で、白と黒の鍵盤に触れている時だけが唯一の息抜きだった。 将来はこっそり家を出